≪内容≫
時代を超えて肚に響く吉田松陰の言葉を齋藤孝が超訳&解説! 見開き構成で読みやすい。
100の言葉の中から、私が耳痛に感じた3つのことを書いて行きます。
国のことを知らないのは恥
自分の国でいま何が起こっているのか、知らないということはどういうことだ。ああ、恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい・・・・。それは本当に恥ずべきことだよ。
松陰先生5回も繰り返しています。
しかも訳者の齋藤さんは「多分現代人を見たら5回じゃ済まないと思う」とさえ仰っています。
ぶっちゃけ国の事を知らなくても、顔から火が出るほど恥ずかしい~!!なんてことないと思うんですよ。
どっちかっていうと、思春期の頃の黒歴史とかの方が思い出し恥ずか死ぬくらい勢いあると思います。
これはなぜそうなのかというと、インターネットの影響で「あ、なんだ~みんな知らないんだ。私だけじゃないじゃない。」とそこで思考が停止状態になるからだと思うんです。
今日では、トランプ大統領の行動ひとつひとつが速報されますが、それについてネットではなくて生身の人間同士で話している人がどれだけいるだろう?と思います。
私の会社では交換ノートをやっているので、そこで「トランプが大統領になって、問題も増えたけど政治に興味が沸く人が増えたんじゃないかと思うがどう思いますか?」とふってみたんですが、回答は「よくわからない」「ヒラリーさんの方が良かった」「要観察中」「面白い」という位でした。
まぁこれも生身ではなくアナログな会話ですが、あんまり皆興味がないんだなぁと印象でした。
ネットニュースに流れるものを流しながら何となく「あ~こんなことあったんだ~」というのは知るには入らない、というのが最近の私の考えです。
保育園問題だったり、シリア難民を300人受け入れるのだったり。
北朝鮮からミサイル飛ばされたり・・・
別に考えてどうこうなることじゃないのは重々承知ですが、どうしたらいいんだろう?そもそも何でこんな問題が起きたんだろう?と追及していくことが知ることだと思っています。
シリア難民を300人受け入れるのも、何も知らなければ「たった300人かよ、日本は冷たいな、遅れてるな~」と思ったかもしれません。
しかし、日本はかなり独特なお国柄です。
外国人拒否の国民性もあると思いますが一番は日本語の壁だと思います。
それから、難民申請をする人達の中にも不正に申請してる人達がいるようです。
日本で今何が起こっているのか、ニュースだけ見ても何も分からないようになっていると思います。
そこから一歩踏み込まなければ、何も知らないのと同じ様な気がするのです。
日々精進あるのみ
一度、自分のやるべき仕事を決めたら、事あるごとにいちいち迷うな。
昼夜を分かたず、ただひたすら、その一事にまじめに取り組むのみ。
その結果としての成果が上がろうが上がるまいが、気にするほどのことはない。すべては死に呑み込まれるのだから。
日々の営みにこそ全力を傾けるべきである。
緊張する場面だったり、ここぞ!って時の私の口ぐせがあるのですが。
それは「どーせ死ぬわけじゃないんだからさぁ」です。
まぁ、そりゃ絶対死なない場面ですよ。面接とか、初対面の人に会う時とか。
さすがに、カンボジアで地雷撤去されていない土地を違法ガイドに歩かされた時はこの言葉は全く効かなかった。だって踏んだら死ぬもん。
なので、すべては死に呑み込まれるのだから。という思想はすごく分かります。
とはいえ、成果が上がらないとやはり落ち込みます。
自分には才能がないんじゃないか?
このままのやり方では一生成長しないんじゃないか?
何か違うやり方を探した方がいいんじゃないか?
と、いちいち迷っていました。
森博嗣さんが「書くことがなくても書けるのがプロであって、書くことがあるから書いているのではない」的なことを書いていて、すごく腑に落ちた経験があります。
日々精進あるのみってまさにこのことと思います。
書くことがあろうがなかろうが書く。
有無に左右されずに日々精進していく。
そんで、会話で生まれた悩みや、職場で生まれた悩みの解決法はネットには書いていない!yahoo知恵袋とかで相談したところで、アンサーは当事者ではない。
対その人との問題は、その人との会話にしか答えがないと思う。
そう思えば悩まずに、一心不乱になれる!・・・気がする!
自分が思った通りに行動せよ
周りがどんな考え・意見を持っていようと、かまわない。
自分が思った通りに行動しなさい。
他人は他人、自分は自分なのだから。
耳痛!
これが俗にいう「わかってるけどできねーんだよ!!」って逆ギレしたくなるヤツ。
でも獄中で塾開いちゃう人に言われるとすんなり「はい」と言ってしまう。
本当に格言は「誰が言うか」が重要だなぁと思う。
結局のところ他人は他人、自分は自分を超えるものはない
周りがどんなに無理だと言っても前例がなくても、自分の道とはそういうものなんですよね。
山の中で舗道されていないところは誰も通りません。
だけど、そこにはいつの間にか道が出来ているかもしれない。
周りが舗道された道を歩きどんどん頂上へ上がっていく横で、新たな道を作ろうとすることは馬鹿げているかもしれないけれど、自分がそうしたいならそれが正しいことな気がする。
私は誰かになる為に生まれてきたんじゃなくて、私として既に生きてるんだから。
もし私の道が頂上に辿り着けなくても、まだ生きているならやり直すことが出来るし、そこで死んでしまうなら死んだまでだし。
無理にあきらめようとしなくていいし、無理に同調しなくていい。
ゆっくり自分の道を作っていこう、今はそういう気持ちです。