≪内容≫
胎児のように手足を丸め横たわる全裸の女。周囲には赤、白、黄、色鮮やかな無数の折鶴が螺旋を描く―。都内で発生した一家惨殺事件。現場は密室。唯一生き残った少女は、睡眠薬で昏睡状態だった。事件は迷宮入りし「折鶴事件」と呼ばれるようになる。時を経て成長した遺児が深層を口にするとき、深く沈められていたはずの狂気が人を闇に引き摺り込む。善悪が混濁する衝撃の長編。
どんどん読みやすくなるなぁと思います。
折鶴事件
東京都練馬区の民家で日置剛史(45)という男性とその妻の由利(39)、そしてその長男(15)が遺体となって発見された事件。長女(12)だけが生き残った。
当時、民家は密室の状態だった。玄関、窓、全てにカギがかけてあった。ただ一箇所、トイレの窓だけ開いていたけど、換気用の小窓で、小さな子供しか入れない。
一家心中の線で捜査が開始されたけど、夫、妻、ともに鋭利な刃物での刺殺で、長男は激しく殴打された上に毒を飲まされての致死と判明した。
簡単な概要。
未解決事件であり、残された長女は何も分からないと言っている模様。
そして、主人公はこの長女と同棲中という設定。
不可解な事件ってどうしても興味が沸いてしまいます。
この興味に最後まで引っ張られてしまうのが本書なので、この事件の真実を知ってしまったらつまらなくなってしまうかもしれません。
ほんとうの真実は長女の中にしかないし、もしくは長女の中にさえないのかもしれませんが、この何故か人を魅了する未解決事件が、なぜ人を魅了するのかについて、最後に書かれていますので、未読の人はここまでで、ゼヒ本書を読んでみてください。
生きるには謙虚さが必要?
俺は人間の限界を知っただけだ。
一見くだらないと思っても、生活の中に身を置くことで、生活は幸福の感覚を享受させようとしてくれる。
こっちがそんなもの幸福と思っていなくても、くだらないと思っていても、向こうからは健気に!
俺は謙虚になっただけだよ。毎日を受け入れる。弁護士の成功の喜びも受ける。正確に言えば甘んじて受ける。
そうやって社会の歯車の中で生活していけば、俺みたいなくだらない存在だって誰かのためになる。
そうやって生きてくんだ人間は。
本当の賢さとは世界を斜めから見ることじゃない。
日常から受けられるものを謙虚に受け取ることだ。
これは主人公の上司の汚いやり方に反抗したら返された言葉です。
主人公は上司を心から親のように思っていた。
だからこそ、反抗したかったんだろうとも思いました。
この意見、なんだか気持ち悪いんですよね。
とくに「俺みたいなくだらない存在だって誰かのためになる。」の部分。
最初にへり下って言えば、"誰かのためになる"が違和感なく聞こえるように感じる。
でも自分が誰かのためになるって言い切ることが誰に出来るだろう?と思う。
「誰かのためになりたい」という願望を持つ気持ちは分かるし、間違っていないと思うけど、それは永遠の夢であると私は考えています。
実際「あなたのおかげで救われたよ」という言葉を貰ったときなら「誰かのためになることができたんだ!」と思える瞬間かもしれないけど。
自分のやっていることが「世の中の正しさなんだ」となぜ分かるんだろう?
それが結局社会のためなんだとどうして言いきれるんだろう?
謙虚さは大事です。
だけど、「俺は謙虚だ!」という時点で全然謙虚じゃないんだから、なんだか正論のようで初っ端から間違っているような言葉に聞こえます。
本当の賢さ=謙虚に受け入れること
ってそんな打算的な思考を謙虚というのか?
意識と無意識が作りだす迷宮
だからこそ、あの事件は様々な人間を惹きつけたのではないだろうか?内面に暗部を抱える者達を、そしてそんな自分を始末してもらいたいと思っている人達を。
無意識の悪の部分を始末したい。
それって気付いちゃえば、そう思っちゃいますよね。
え?私ってこんな嫌な奴なの?
こんな自分恥ずかしくて消し去りたい!
とか思ったことありませんか?
私はあります。特に思春期のとき。いわゆる黒歴史というやつになりますかね~。
分かりやすい例が思い浮かばないのですが、嫉妬とか自分に都合がいいか否かで人や状況を見てたこと、それに自分で気付いていながら止められなかったり、他人のふとした一言で気付かれてることに気付いたときとか。
全く無自覚で振舞っていたことが、視点を変えれば相当嫌な奴だと思えたときとか。
もう消えてなくなりたい・・・!と思いましたね。
今は、この感情が怖すぎて"正しさ"や"潔癖"に逃げています。
"卑しい"が過剰に嫌いなのはこの感情から来ていると自分で思っています。
だけど、ほんとうは正しさだけじゃ生きていけないんですよね~・・・
悲しいかな、人間って不完全だから人間なんですよね。
汚くて、惨めで、悲しい部分があるから、笑ったり楽しんだりできる。
だから悪の部分を消そう消そうとすると、悪の部分だけじゃなくて自分も消えちゃうんです。
たぶん、誰かと生きることがメジャーなのは、そうすればバランスが取りやすいからだと思いました。
それが人間の本能、とか、寂しいから、とかはよく分からないけど、こう考えるなら理解出来る。
自分の悪の部分を受け入れることが出来なくても、それを受け入れてくれる相手がいるなら、自分で排除しようとしても、消えなくて済むんです。
それが冒頭と、結末に出てくる"デュエット"だと思うのです。
一人で生きていくって、そういう意味で大変なんだろうと思う。
お金とかじゃなくて、消えないために、必要な存在。