深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

子どもたちは夜と遊ぶ/辻村深月~他人だから愛しくて、他人だから必要なんだ~

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≪内容≫

大学受験間近の高校三年生が行方不明になった。家出か事件か。世間が騒ぐ中、木村浅葱(あさぎ)だけはその真相を知っていた。「『i』はとてもうまくやった。さあ、次は、俺の番ーー」。姿の見えない『i』に会うために、ゲームを始める浅葱。孤独の闇に支配された子どもたちが招く事件は、さらなる悲劇を呼んでいく。

 

かなりショッキングな内容でした。

辻村さんの作品は何作か読んだことがあり、一番最初に読んだのは「冷たい校舎の時は止まる」で、私は高校生だったと思います。

 マンガ版もあります↓

この本、上下合わせて1000p近くあるんですよ。長い。

だけど二日間で4時間くらいで読めました。すごいです。これだけのページを飽きもさせずに捲らせ続ける辻村さんは。

 

しかも下巻からは一気に進んで行きます。

心が早って乱読になりそうなくらい続きが気になってしょうがなくなる。

 

 

蝶の羽化/月子と浅葱

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この小説の表紙の絵なんですが、もう一つのバージョンって月と蝶なんです。

これがもう表紙から訴えていたんだなぁと読み終わった後に思いました。

 

月は月子というキャラクターが出てくるので分かるのですが、蝶は色んな意味で"鍵"となっていました。

 

小学校のころ、浅葱の学校ではモンシロチョウの幼虫を飼育していた。今日のあの女はその時の浅葱が見ることが叶わなかった蝶の羽化を見たという。

 

浅葱の幼虫は蜂に寄生され、羽化したのは綺麗な蝶ではなく黒い蜂だった。

月子は偶然学校の帰り道で、羽化した蝶を見た。

 

ここに持つ者と持たざる者の関係が描かれています。

 

愛される月子、愛されない浅葱。

愛される人間は綺麗な蝶を見れるけど、愛されない人間に蝶は姿を見せない。

愛されない人間の前に生まれるのは、蝶になる幼虫を喰らい尽して生まれた蜂だ。

 

浅葱は父に認知されず母に育てられ虐待され、その後に施設に送られ、そこで凄惨な暴力と性的虐待を受けて育ちました。

 

月子は優しいお母さんと優しいお兄ちゃんの元育ちました。

彼女は気を使いすぎるし、我が強く、正義感も人並み以上。

だけど、他人のために怒ったり泣いたり出来る優しさがあるから、周りもなんだかんだ月子を甘やかし愛しています。

 

生まれたときは、月子も浅葱も同じモンシロチョウの幼虫だった筈なのに、気付いたときには浅葱は蜂に喰い殺されていた。

モンシロチョウの幼虫は、寄生されてもその事実に気付かず一生懸命蝶になろうとキャベツを食べる。

それが結局寄生した蜂のためになることに気付かずに。

 

盲目の天使/恭司と狐塚孝太

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(前略)

人間てのは、大好きな人が最低一人は絶対に必要で、それを巻き込んでいないと駄目なんだ。そうでないと歯止めがかからない」

 

「今まで俺の周りにはいないタイプだったし、何て言うのかな、すごく保守的でいい家に育った健全な匂いがした。真面目だし、優しいしさ」

 

「俺とは正反対だったから、いいと思ったんだ。こいつと友達になって、俺に巻き込まれてもらおう。こんな真面目ないい奴を巻き込むんだから、取り返しのつかないことだけは絶対にしないって決めた。」

 

石澤 恭司

 

恭司も浅葱と同じ孤児です。

事故で自分以外の家族が全員亡くなってしまった。

それから彼は何に対して夢中になれない、執着を持てない人間になった。

 

狐塚孝太はいつもNO、2の存在。

浅葱が天才なら孝太は努力の人。

そしていつも一番は浅葱で、次が孝太。

浅葱さえいなければ孝太は一番になれる。

 

だけど彼は絶対にそんなことは考えない。

浅葱の実力を素直に認め、素直に悔しがり、努力し続ける。

浅葱が彼に自分を恨まないのか、と聞いたとき「悔しいけど君を恨んでどうなるの?」という返答を返している。

 

正しい。

狐塚孝太は太陽のように健全なのだ。

裏表のない健全な優しさを孝太と月子は持っている。

それに個性やそれぞれの思想が加わり、形は違っていくけれど根本の健全さは変わらない。

 

恭司は盲目の天使の話を浅葱にする。

盲目の天使が殺人犯を救ってくれるんじゃないか、という話。

 

だけど、盲目なのは天使だけじゃなく殺人犯の方でもあることに最後の最後で浅葱は気付く。

盲目の天使が闇雲でもずっと手を伸ばしているのに、それに気付かない愚かな殺人犯。

 

もしもその手に気付ける目があれば、相手が天使じゃなくたって救われるはずなのだ。

 

 

どうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに、蝶やとんぼは殺しちゃいけないの?

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なぜなら、蠅やアブラムシは特に意味のない虫だからです。

蝶の舞う姿は美しく人の心に響きます。

とんぼが空を飛び始めると人は秋の訪れを感じ、季節に思いを馳せます。

 

つまり人にとって価値のあるものは大切にされるが、特に価値のないものはぞんざいに扱ってもいいのです。

私はこういう心理なんじゃないかなぁと思います。

 

そして本書で言う蝶やとんぼは月子や孝太や真紀ちゃん。

蠅やアブラムシは浅葱や上原愛や今田信明。

前者は人に何かいいものを与えられる人、後者は人から奪ったり、人を不快にさせる人。

 

そしてイレギュラーなのが恭司

彼はある人間に対しては害を与えるけれど、ある人間に対しては深い愛を与えます。

彼が言う「大好きな人が最低一人は絶対に必要で、それを巻き込んでいないと駄目なんだ。」というのが、希望です。

 

初めから与えられた優しい世界で育った人間は、かんたんに「大好きな人」が手に入るし、人を巻き込むことに慣れているし罪悪感がない。

 

だけど人から損なわれる世界で生きてきた人間は、かんたんに「大好きな人」なんて見つからないし、出来るなら他人と関わらずに生きたいと思っている。

それが自分にとっても他人にとっても良いと思っている。

 

恭司は「死にてぇ」と言いながら誰かを巻き込んで生きています。

他人なんてどうでもいいと思いながらも「大好きな人」を作ろうとして、他人を巻き込もうと思い生きています。

 

愛されずに他人からいじめられたり存在を否定されてきた人間に「君の事をみんな大好きなんだよ」と言っても、「それってお前のエゴだろう?」と思ってしまうのは仕方ないことであり、ひねくれているとも思いません。

 

愛されてきた人間が「ほんとうはお前なんか誰も好きじゃないよ」と言われても「はたしてそれはほんとうだろうか?」と、素直に受け入れることは出来ず疑問を持つと思います。

 

他人から大切にされるためには価値がなきゃいけない。

無償の愛をくれるのは親兄弟だけだとしたら、親兄弟がいない人間は大切にされる価値を身に付け続けなければならない。

 

それが月子側の人間からすると「盲目」状態なのです。

iと浅葱は目をナイフで刺しますが、これは「目があっても見えていないなら要らないよな?いっそ、目があっても救いが見えないなら初めからない方がいいよな?」っていう意味と、本当に盲目になってしまえば天使が見えるかも知れないという意味があるのかなぁ・・・と思いました。

 

浅葱は最後に片眼は失明するけれど、もう一つの目はかろうじて見えるくらいの傷に留まります。これは最後に月子が手を伸ばしていたことに気付いたからではないかなぁ・・・と。

 

私はまだ、これが本当だとしても、現実だとしても"無償の愛をくれるのは親兄弟だけだとしたら、親兄弟がいない人間は大切にされる価値を身に付け続けなければならない。"と思いたくないし、愛されなかった子供は永遠に満たされないとも思いたくない。

 

これは私のエゴだけど、生きていたら愛に出会えると思いたい。

満たされて、それが溢れて、誰かに分けることができる日が来ると言えるようになりたい。

 

子供にどうして蠅やアブラムシを殺してもいいのに、蝶やとんぼは殺しちゃいけないの?と聞かれたら、なんて答えればいいんだろう。

蠅は殺さなくても家から追い出せばいいよって言えるけどアブラムシは花を枯らしてしまうからなぁ・・・。

まぁ蠅も病原菌運ぶから何とも言えないし・・・

 

秋先生が言う通り、私も自分の目に映る世界のことしか考えられません。

目の前で大切な人が傷付けられたら怒ったりするけど、自分の知らない人間が知らないところで虐待されていてもいじめられて助けを求めていても、きっと気付くことも助けることもできないと思う。

 

それぞれが自分の世界があると思う。

家庭、学校、塾、職場、習い事、などなど。

その小さな世界で、愛をもらったり注いだりするしかないけど。

でもそれぞれが、そうやって愛を循環することが出来るなら少しは愛を受け取れる時間や場所が増えるんじゃないかな。

 

それに気付くための目が盲目状態の人がいたら、「目を開けろよ!!」って言うんじゃなくて、「目を開けても大丈夫なんだよ」って言える環境を作りたい。

世界を作るのは一人じゃないから。

自分だけが躍起になって目を開けさせようとしても、きっとダメで。

自分がいる世界が、自分の友人や家族や環境、そういうもの全部が目を開けてもらうために必要なんだと思う。

 

とりあえず、すごく悲しい。

愛されなかった子供の話を選んでいるわけじゃないのに、こう連続で出会うのはどうしてだろう。

ハッピーエンドの作品は選ばなきゃ出会えないのに、悲しい作品は望んでいなくても手元にやってくる。

それだけ悲しいことの方が多いのか、悲しい物語を人が求めているのか。