≪内容≫
海辺で出会った水着の女は、僕にこう言った。あなたの目に町が映っているわ。その町はゴミに埋もれ、基地をもち、少年たちをたくましく育てる町、そして祭りに沸く町。夏の蜃気楼のような心象風景の裏に貼りつく酷薄の真実を、ゆたかな感性と詩情でとらえた力作。『限りなく透明に近いブルー』に続く作品。
目に見えない世界は無いに等しい。
目に見える世界でもそこに自分が存在しなければ無いに等しい。
海の向こう
「この浜辺に、あの町からの死体が打ち上げられたら面白いわね、みんな見にくるでしょうね」
血はすっかり洗われて、死臭を放ちブクブクに腫れ上がった無言の人間を、海は運んでくるだろうか。
いや、死体は途中で消えてしまうだろう、鋭い歯を持つ貪欲な魚達が啄むだろう、濃い塩分が骨まで溶かしてしまうだろう、海とはそういうものだ。
あの町と僕達の間に海は常にそういう風に横たわっている。
私は村上龍に対して畏れを感じています。
「お前さ、中東のテロや戦争を悲惨とか許されないことだみたいに思ってるようだけど、結局海の向こうで起きてる戦争のことなんて、日常のニュースの一つくらいにしか思ってないんだろう?」
と言われた気がしました。
日本と言う島国。
海という自然に守られた国。
日本以外の国は全て「海の向こう」の国で、日本列島までその死体も匂いも届かない。
「あの町と僕達の間に」というのは、他国と日本の間ということだと思います。
ニュースで世界情勢を知る。
戦争は怖い、戦争はしてはいけないことだ、現地の子供はかわいそうだ。
ねぇ明日なにする?
映画観るのもいいし、久しぶりにディズニーランドでも行ってみる?
あーご飯作るの面倒臭いなぁ。
外に食べに行こう。
え?中華?いいねぇ!餃子食べたいわ~。
あ、でも明日仕事だからにんにく抜きね!
私たちはいつだって、明日が当たり前に来ると思ってる。
だって、世の中の恐ろしいことはいつだって海の向こうで起きてるんだもの。
戦争の欠片は一欠片も日本には届かない。
海に守られた国で生きている私たちには。
いいか、温度なのだ
温度は全体が一定になるように定められ、私たちがじじいになる努力ばかりしていると少しずつずれができてしまう、いつか誰かがそのずれを修正しなければならない、お前らが選ばれたんだ、お前らはずれを修正するために生まれてきたんだ、
戦争は恐ろしい、みんながそう思っている、それは正しい、いつだって戦争は恐怖だ、私も恐い、小便を漏らしそうになる、しかし、考えてみろ、恐怖の裏側にはいつも何があった?
恐怖の向こうにあるものは何だ?
それは熱狂と興奮と恍惚だ、戦争は退屈しない、きょう一日何をしようかなどと考える必要はない
公園で一日中新聞を読み、たまに鳩に餌をやったりして、昔話に花を咲かせたりして、過去の思い出を反芻して生きるじじいのような人間。
そういうじじいのせいでずれた温度を正す役割を与えられて生まれてきた人間がいる。
じじいのように一日何をしようか考える必要もない、平凡でもない熱狂と興奮と恍惚に塗れた人生を送る人間。
人生が死ぬまでの暇つぶしだと言うなら、本書の言葉を使うなら、究極の暇つぶしは戦争になる。
戦争には暇がない。
誰もが命がけだ、戦う兵士も逃げる国民も生まれてくる子供も。
しかも人間はたいていが平凡では満たされない。
誰もが刺激を求めている。
大型ライブに行って興奮してみたり、好きなアイドルやバンドに熱狂してみたり、芸術に酔ってみたり、創作に凝ってみたり。
ただ生きているだけでは満たされない生き物です。
戦後の日本が成長期で盛り上がっていたころは今よりも貧しくて、女性の地位も低くて、お見合い結婚が主流で、不自由そうに見えるけど、今を生きている人間よりも満足度は高いんじゃないか、と思う時がある。
人は呼吸して、ご飯を食べて寝るだけじゃ満足しない。
何か役割を背負って生きてこそ輝く。所謂"生きがい"というものを欲する。
その"生きがい"を分かりやすく、しかもかなり重大な生きがいとして示すのが"戦争"である。
国の為に戦う。愛する人を守る。家族を大切にする。自分の信念を持つ・・・こういったことが言葉通りの意味を持つのは戦争状態であるときではないでしょうか。
戦争は恐ろしい、でもその恐怖の向こうには自分という個体と国が密に繋がっているという興奮や"やりがい""生きがい"がある・・・のかもしれない。
私は水木しげるさんの総員玉砕せよ!が一番自然に思ったので
人間を死に追いやるのが退屈だと思っていても、その退屈を凌ぐために"戦争"が有効だとは思わない。
私の身近に「なにもやりたいことがない」という人間がいるので、そういう"やりがい"や"生きがい"を持てない人間がいるのも知っていますし、もうここまで時代が発展したのだから新しいものを生み出そうという意欲が沸かず、出来合いの世界で生きていくしかない窮屈さも分かる。
きょう一日何をしようか、と考えるのが辛い人間もいるだろう。
でもきょう一日寝てるだけでもいいじゃん。
どうせみんな死ぬんだし、殺し合いしなくても死ぬんだし、生きがいなくても死ぬんだし、生きがいあっても死ぬんだし、温度がずれて世界が破滅した方がいいよ。
世界中のみんながいっせいに死んだら、それこそ本望じゃないか。
まぁそんなことを言っている本ではないので無粋なことを言いました。
戦争はいけないと思っている人間と必要と思っている人間がいる。
だから戦争はなくならない。
創造的破壊
蟻の巣のように広場の人間共をみんな踏み殺せたらどんなにいいだろう。全ては汚らしい嘔吐物だ、全ては母親のあの吹出物だ、汚くて臭く腐れていて痒い、切り裂く必要がある。
祭りなんか要らない。
戦争が始まればいい。
一度全てを切開して破壊して殺してしまうのだ、
一個人は死んだら終わりですが社会全体で言えば、その国の人々や生活が破壊されたことで新たな国や法律が創られる。
ポル・ポト政権はまさにこれですよね。
頭のいい人間を虐殺し、なにも知らない子供に自分たちの思想を植え付ける。古きを消して新しい者を創る。
ただ、この思想って「起きてしまったこと」に対しての思想であって、自ら起こすべきではないと思っています。
壊すことで生まれるものがあるのは分かる。
家だって建てるのは大変でも壊すのは一瞬だったりするでしょう。
動物農場の風車は何年もかけて作ったのに、爆弾で一瞬にしてゴミの山になりました。
別に戦争バンザイ!って本でもないし、戦争良くない!って本でもなくて、何と言うかそのどっちかにも振り切っていない感が何ともリアルな気がしました。
この本を読んだからって、何か具体的に事を起こそうとは思わないだろうし、熱く戦争について語ろう!という気にもならない。
主人公たちと同じです。
海の向こうで戦争が始まるというタイトル通り。
それがどこの国だとか、どんな内容だとか、そんなことはどうでもいい。
「なんか、海の向こうで戦争やってんなぁ」という感覚を描いた作品。
”夏の蜃気楼のような心象風景の裏に貼りつく酷薄の真実を、ゆたかな感性と詩情でとらえた力作”
の言葉通り。
酷薄です、口ではどんなに戦争反対と言っても。
傍観者は得てして酷薄である。