≪内容≫
頭のいい人とは、博学で教養(知識)がある人というイメージがある。しかし、知識をたくさんもつことは、「本を読んで、頭に入れて、それを整理して、必要なときに出す」ことにすぎない真の頭のよさとは、思考すなわち「それはなにか、なぜそうなのか、という疑問をもって、それを自分の力で解こうとすること」にある。人類にとって、いまは「知識の時代」から「思考の時代」への転換期なのだ。
「人間の本質は、ものを考えることにある。知識より一歩先の“思考"にこそ力がある」と著者は言う。
『思考の整理学』の著者による、無知を恐れず、知識に頼らず、自分の思考を育てるための本。
日本人は何でも知っているバカになっていないか?知識武装はもうやめて、考える力を育てよう!
外山 滋比古さんを知ったのはここからですが、
これを読んだ時の衝撃たるや・・・でした。とくに「ひとつでは多すぎる」は私の中でず~っと生き続けています。知識を持つことと考えること、考えることと悩むこと、見た目は同じようでも中身はまったく別物です。例え目に見えなくて実用性がなくっても・・・欲しい、思考の力・・・!
全ては借り物である
知識というのはすべて借りものである。自分で考えた知識を、われわれはほとんどもっていない。人から聞いたとか本に書いてあったということは、ようするに借りてきた知識ということだ。だから、いわゆる勉強、知的活動、教育というのは、すべて借りものを前提にしている。
私は外山さんの本にシンパシーを感じるのは、「思考力」というタイトルなのだけど実態は「生きること」について書かれているからです。
知識は借りものであるので、自分から生み出すものではありません。ですから、勉強ばかりして知識を詰め込んでもそれは生きる力にはならない、というのです。人生を生きていくために人は教養を求めると思うのですが、それが勉強していく内に"生きていくため"ではなく、"教養がある人になるため"に変わっていってしまうのです。
本書では、こういう人間を「エスカレーター人間」と書いており、学校教育がエスカレーター人間を大量に生んだと書かれている。
小学校から大学まで教育を経て、企業に就職し、定年を迎える。受験や就職活動以外では特に努力することなく与えられたものをこなす(人によりますが)。そういう人間は自らの足で切り開く力がないというのだ。
生きていくということは、職業として仕事をすることではなく、そこで生活をすることである。自分の足で自分の責任で歩くことである。だから、どうしても努力と苦労が必要となる。
しかも、いくら努力をしても、道にならない場合の方が多い。いくらかでも恵まれた人は、道を切り開いていくけれども、そも道も、明るい未来に通じているとはかぎらない。
(中略)
大部分の人は、歩いたあとが道にはならない。未知なきところを歩いたとしても、ほとんどの場合、自分が歩いたあとは消えてしまっている。それが普通なのである。
本書は「思考力」を教えてくれるわけではありません。どちらかというと、知識に丸投げして生きるのはいかがなものか?と問いかけているような感じです。
知識は無料で借りれるし、それを使うこともできる。そうすると自分で考えるよりも早くて安心なのでどんどん知識を増やしていって考えることをしなくなる。
そうしても生きていけるのだけど、それで人生を生きていく、「自分の足で自分の責任で歩くこと」が出来るのだろうか?と問いかけられている気がするのです。
おそらく、本書を手に取る人は私と同じように「思考力」が欲しい、考えることが好きな人なのではないかと思います。
自分が生まれた時代に、与えられた情報を使って死ぬまでの時間を過ごす。その過ごし方について少なからずつまらなさを感じていたり、疑問を感じていたりすることがあるんじゃないでしょうか?
例え新しいものを生み出せなくても、何者かになれなくても、考えることは自由です。それなら知識に縛られず、一見意味のないことや一見遠回りに見えるようなこと、無駄に思われそうなこと、そういったものにも目を向けてみたら今より少しは面白い世界になるんじゃないかな、と思います。
おもしろきこともなき世をおもしろく、は自分次第。