≪内容≫
「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」と自ら述べた奇才バタイユの最後の著書。人間にとってエロティシズムの誕生は死の意識と不可分に結びついている。この極めて人間的なエロティシズムの本質とは、禁止を侵犯することなのだ。人間存在の根底にあるエロティシズムは、また、われわれの文明社会の基礎をも支えている。透徹した目で選びぬかれた二百数十点の図版で構成された本書は、バタイユ「エロティシズム論」の集大成。本国フランスでは発禁処分にされたが、本文庫版では原著を復元した。新訳。
最も親しみやすい本とあって読みやすかったです。
ほぼ写真・・・というか絵画の説明だったりしますしね。
バタイユは死に対してものすごい恐怖を抱いていたんじゃないかと思います。
ここまで"死"から逃れようと画策した人はいないんじゃないでしょうか。
バタイユは歴史に照らし合わせてどうやって"死"が人々の中で受け継がれてきたかを書いています。
今ではガンとか事故とか死亡理由が明確だし、見せしめや生贄で死ぬ人はいません。
だからこそ"死"に対してそこまで嫌悪感がないと思いますが、バタイユが生きた時代、バタイユが勉強してきた歴史には様々な意味不明な死があったと思います。
意味不明な死は怖いです。
理由が分かる死だから受け入れられるのです。
絵画洞窟に見るエロティシズム
彼らの洞窟の内壁の上に残した自分たちの像において、この上なく頻繁に勃起状態にある自分たちの姿を描いた人々は、たんに彼らの存在の本質にー原則としてーこのような仕方で結びついた欲望の故に動物と異なっていただけなのではない。
われわれが彼らについて知っていることに照らして、彼らは自分たちが死ぬであろうことを知っていたー獣たちはそれを知らないのだがーと言うことができるのである・・・。
洞窟絵画に描かれている勃起状態の男性像。性交図。
男根の小立像。
石灰岩に刻まれた女性の恥丘の三角形。
裸体の女性像。
などなど。遥か昔から性的なものが残されています。
これは動物から人間になった証拠のように書かれています。
このような性的なものを残すということは「死」を認識しているから。
エロティシズムがなぜ死と結びついているか。
エロティシズムとは死におけるまで生を称えること
人間は生まれ死にます。
その中で性行為というのは新たな命を生み出します。
それなのになぜ死と結びつくのかというと、エロティシズムという概念は死から生まれているからです。
死の概念がない動物には性行為はあってもエロティシズムがないというのがバタイユの思想です。
書くと簡単なのに、理解するまで時間かかる・・・。
それでなぜ洞窟に絵が描かれたかというと
実際、この聖所=洞窟の領域は、本質的に、遊びの領域である。洞窟の中において第一の地位は狩りに与えられているのだが、それは絵画の呪術的な価値の故であり、またおそらく形象の美しさの故でもある。
それらは美しければ美しいほど、効果的なのであった。
けれども、洞窟の濃密な雰囲気の中で、魅惑が、遊びの深い魅惑が、おそらく優位を占めたのである。そして、このような意味においてこそ、狩りの動物の姿と人間のエロティックな姿との結びつけを説明すべき理由があるのだ。
(中略)
けれども、なによりも、これらの薄暗い洞窟が、実のところ、深い意味における遊びというものー労働に対置され、魅惑に服従すること、情熱に応ずることを何よりも先に意味する遊びーに捧げられたということは事実なのである。
動物から人間になったのは「労働」によってです。
しかし人間は労働を遊びに変換することができるのです。
バタイユはそれを「芸術」と呼んでいます。
人間の遊びはもとは労働だったのだ!ということです。
なので、洞窟絵画には人間が遊びという労働を行っていた証なんですね。
そして性的なことに対しての今日のような規制がなかったから、絵画の内容がエロティックなものだったのです。
なぜ古代の人は松明の明かりだけを頼りにするしかないほどの暗闇で、網を使わなければ降り立てないような深い場所に絵を描いたのか。
生きていながら死ぬことはできない。
松明の明かりで絵を照らすと、照らされた絵とは対照的に暗闇と同化した自分が現れる。
姿を現すその瞬間に、姿を見えなくする。
この洞窟壁画の意味はまさにエロティシズムの概念と一致するとバタイユは考えます。
西洋絵画に裸体が多いワケ
中世は、絵画におけるエロティシズムに、その場所を与えた。
すなわち、それを地獄に追いやったのだ!
この時代の画家たちは、協会のために仕事をした。そして、教会にとって、エロティシズムは罪だったのである。
絵画がエロティシズムを導入し得る唯一の様相は、断罪なのであった。地獄の表現ー厳密には、罪の忌まわしい画像ーのみが、エロティシズムを登場させることを許したのだ。
キリスト教的断罪、つまりエロティシズムを断罪する動きが生まれました。
そこで、裸の人間が苦しんだり罰を受ける絵を書かせ憎悪感を与えようとしたのである。
しかし、エロティシズムの根本である禁止と侵犯が生まれます。
ルネッサンス以降、裕福な人たちがこの裸体の絵画を手に入れようとします。
エロイことはいかんぜよ!と禁止しても、人間はエロティシズムの持つ魅力を捨てることはできませんでした。
中世では裸=死=怖れでしたが、ルネッサンス以来には、死=恐怖の歓喜という、死=苦痛ではなく死=魅力に結びつけた画家が出てきたのです。
西洋に発展したキリスト教はエロティシズムを禁止するために、裸体の絵を欲し、その後は大きな侵犯として発展した。
キリスト教ってほんと奥が深くてびっくりしますわ。
冒頭に戻りますが、人間は想像する生き物です。
そして、その想像力は果てしなく無限大です。
その想像に壊されないために、人は自ら恐怖へ向かいます。
だから恐怖自体を禁止されたら、結局は壊れてしまうのです。
本書ではサド侯爵とゴヤについてこう書かれています。
彼らは、ともに、宗教を基盤とする体制に、病的な嫌悪を持ったのだ。けれども、とりわけ、過度の苦痛の強迫観念が、彼らを結びつけた。ゴヤは、サドのように、苦痛を肉体的快楽に結合しはしなかった。
とはいえ、彼の死と苦痛の強迫観念は、彼の中において、それをエロティシズムに類縁づける痙攣的な激しさを持った。
しかし、エロティシズムは、ある意味では、捌け口なのだ。
それは、嫌悪の下劣な捌け口なのである。
エロティシズムは、ある意味では、捌け口なのだ。
宗教的恍惚とエロティシズム
突如として私に見えてきて、私を苦悶の中に閉じ込めてしまったものーしかし、同時に、そこから私を解放してくれたものーそれは、神々しい恍惚に極度の恐怖を対置する完璧な反対物の同一性であった。
バタイユが北京の凌遅刑の写真とブードゥー教の供犠に見た、死と恍惚が一体している光景。
凌遅刑においては、アヘンを吸わせているためという見解もあったようだが、身体が死に向かって切り刻まれていく中で本人は恍惚の表情(?)を浮かべている。
人は性行為をするときに恍惚状態に陥り、死ぬときには苦痛の表情を浮かべるものだった。それが同一に存在することはあり得ないというバタイユに思想を覆す光景だった・・・ということだと思いますが、ここら辺私の勝手な見解です。
この後、宗教の理論を読んだのですがバタイユが話していることって基本ずっと同じで「死」に関してなんですよね。
全ての本を読んでいないので、彼自身が「死」についてどういった姿勢で生きていたかは今の時点では分りかねますが・・・。
生と死。
聖なるものと穢れたもの。
当たり前すぎるものほど、それが持つ真実への理解は遠ざかる気がする。
私はバタイユが好きです。
ヘーゲルとか読んでいないので理解に苦しむところは多大にあるのですが、今年は哲学書と経済学と文学を読みたいなぁと思っています。
そのせいで全然ドラマやアニメについていけていないのですが、今年は思い切って勉強の年にしたいと思います。
われわれの知っているとおり、われわれには意識以外に解決策がないのだ。