≪内容≫
「饒太郎」「蘿洞先生」「続蘿洞先生」「赤い屋根」「日本に於けるクリップン事件」の五篇を収める。自らマゾヒストを表明した主人公饒太郎。日本に生れたこと後悔すると言いながらも、西欧の書物から被虐の喜びを求めるひとが世界の至るところに居ることを知る。そのきわめて秘密の快楽の果ては…。
面白いのは「蘿洞先生」「続蘿洞先生」かなぁと思うのですが、マゾヒストがただ単にいじめられるのが好きな受容型ではないというお話である「日本に於けるクリップン事件」を本記事では紹介したいと思います。
1はこちら↓
マゾだって、いじめてくれるなら誰でもいいわけじゃない
つまりマゾヒストは、実際に女の奴隷になるのではなく、そう見えるのを喜ぶのである。見える以上に、ほんとうに奴隷にされたらば、彼らは迷惑するのである。
傍目には、妻を崇拝する夫、妻に足蹴にされる夫と見えていても、実際は夫が自分の欲望のために妻を暴君的人形として扱っているのである・・・というお話。
それ故に、その人形に飽きたり、その人形より良い人形に出会った場合、常人よりも却って恐ろしい犯罪に引き込まれる可能性があるのがマゾヒストである、と。
そして、起こった事件が英国でのクリップン事件だったのだ。
しかし、英国で起ったとはいえ、それはお国柄でもなんでもない。日本にも「日本に於けるクリップン事件」が存在したのだった・・・。
思えばこの「潤一郎ラビリンス〈2〉マゾヒズム小説集」は「饒太郎」→「蘿洞先生」→「続蘿洞先生」→「赤い屋根」→「日本に於けるクリップン事件」の流れになっていて、綺麗にマゾヒストの起承転結になっています。
「饒太郎」→マゾ的欲求と一般家庭の間で揺れる段階
「蘿洞先生」→マゾ的欲求に振りきれてはいるものの、外交には出さない
「続蘿洞先生」→ついに外交にもマゾ思考を漏らす
「赤い屋根」→マゾヒストの人形から抜け出したい女サイドの話。夫は妻を暴君に仕立て上げ、妻だけでなく第三者からも虐げられるというマゾヒストの境地に達する。
「日本に於けるクリップン事件」→飽きた人形の処理。
一人の男がどうやって自分に潜むマゾヒズムを見つけ、それを育てるための女を見つけ人形にするまでに教育し、新しい人形を見つけ破棄するのか、そういう一連の流れが本書に描かれています。
「赤い屋根」での女のセリフ。
あたしはそんな女じゃないよ。あたしは、あたしは、・・・・・・・・おやじのお陰でこんなに悪くされちゃったんだ。・・・
あたしほんとは泣き虫なんだよ、可愛がってくれなきゃあ厭よ。・・・
という言葉からも分かるように、彼女はもう自分一人では逃げられない檻の中に入れられてしまったのですね。
世間的には檻に入れられてるのはおやじです。
だけど、精神的に満足しているのはおやじであって彼女は不満だらけなのです。
マゾのおやじが泣くから、自分は泣けない。
怒りたくないのに、怒らせるように仕向けるからそれに答えなければならない。
もちろん答えたくないなら答えなくっていいのですが、相手のペースに乗らない相手をマゾだって選んだりしない。
つまり、相手に合わせることのできる優しい人を相手にしてるわけです。
↓のときも思ったけど、マゾのペースに乗るって並大抵じゃたぶんできない。
私はこの作品の最後、四つん這いになった男の「俺を馬だと思って乗ってくれ!」という台詞がほんとうにゾクっとしちゃって泣きたくなります。
マゾというのは地味に強い気がします。
中学生か高校生の頃、ちょっかい出されてる子が笑いながら「やめてよ~」と答えると、「何いじられて喜んでんだよ!エムなんじゃねーの!」みたいな返しをする子がいたんですが、この返しも潜在的な恐怖からきてるのか・・・とも思えてきたり。
人間関係において相性ってあると思うのですが、この良し悪しって自分の中の良い部分を引っ張り出してくれる人は良い相性で、悪い部分を出されちゃう人は悪い相性なのではないかなぁ。と日々思ってます。
例えば同じことをされても、この人に言われたらすんなり納得できたのに、この人から言われたらなんか腹立つわ、とかって私はあるんですが、そういうとき、前者の人は私の中の素直な部分を突いてくれて、後者の人は私の中の猜疑心をくすぐっているのかもしれない、と思っています。
逆に言えば、私が前者の人の面倒見の良さを突いてて、後者の人には権力とか強制力とかそういう部分をくすぐってしまっているのかもしれない・・・と思う。
マゾって怖い・・・。となるお話。「痴人の愛」のナオミも、「刺青」の女も、マゾによって自分ではコントロール不可能な領域までサディズムを引き出されちゃった感じ。誰だってマゾもサドも持っていると思うのだけど、それを他人に引き出されちゃうとかなり怖いですよね。ある意味一番のホラー。