《内容》
1979年、カリフォルニア。シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ。正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール。母の愛情を受けずに育ったダウン症の少年・マルコ。世界の片隅で3人は出会った。そして、ルディとポールは愛し合い、マルコとともに幸せな家庭を築き始めるが…。実話から生まれた魂を震わす物語。
何も言えねえ・・・ってくらい心にグサリとくる。たぶんドストレートな内容と言葉だからだと思う。綺麗ごとも過剰な演出もない、どこかの国の片隅で起きている実際の物語という感じ。
生きるって当たり前のことじゃない
1979年のアメリカ・カリフォルニアのお話。
ショーダンサーのルディは、ある日隣の家の少年・マルコが母親が麻薬で逮捕されたことによって施設に送られるのを目の当たりにする。
マルコは見るからにダウン症とわかる風貌で、きびきびとマルコに出かける指示を出す家庭局保護官とそのたびに首を振ったりうなずくことしかできないマルコの姿を見たルディはただその光景を見ることしかできない自分に腹が立つ。
そして、その日の夜、施設から家に向かってただひたすらに夜道を歩くマルコに出会ったルディはマルコと一緒に生きることを考え始める。そしてそのことをショーのお客でありルディに恋する弁護士のポールに相談するのだった。
弁護士のポールはゲイであることを隠しながらルディと付き合いたかった。それはゲイというだけで同じ人間なのにあらゆるものが奪われることを知っていたからだった。しかし、ルディは毅然と言い放つ。これは、差別なのだ。と。
世界を変えたくて
法律を学んだんでしょ
くだらない理想論を忘れた?
マルコが施設に送られたら彼を引き取る人間がいないことをルディは知っていたし、ポールも確信していた。それは二人だけでなく、大人なら誰もが知っている当たり前のことだった。
だが、裁判では二人のマルコへの愛よりも二人がゲイであることが問題となった。どれだけマルコを愛していても二人と一緒に暮らすということは同性愛が正常であるとマルコに教えるのと同じだと。
誰も欲しがらないから
この世に背が低く
太った知的障害児を養子にする者はいないからです
私たちしか
私たちはあの子を愛しています
面倒を見て教育をし
大切に守り
よき大人に育てます
彼に機会を
過ぎた望みですか?
マルコと二人が一緒に暮らしたのは麻薬中毒者の母親が一瞬だけ認めた数日間だけでした。だけど、マルコは二人が用意した部屋を泣いて喜び、母親と一緒に暮らしていた家に帰されたときは「ここは自分の家じゃない」と何度もつぶやくけど、規則で動く人間はマルコの言葉を無視し、彼をそこに閉じ込めて帰っていったのだ。
この話もそうだし、例えば黒い大きなゴミ袋に入れられて捨てられていた少女を見つけて保護した「mother」とか
捨てられたも同然な環境を強いられた人たちの集まりを描いた「万引き家族」とか
ほんと、
過ぎた望みですか?
って思う。
「同性愛が正常であるとマルコに教えるのと同じ」ことが悪だとしても、それはマルコが生きていることが前提で、死んだら意味ないじゃんか。
どうして生きていくことが、生きることは当たり前にできることなんだって思うんだろう。どうしてそこを通り過ぎてその先の問題で判断するんだろう。
死んでしまったの。一人ぼっちでハッピーエンドを探して、自分の部屋を探して、三日間もさまよって。もし彼が太った知的障害児じゃなくて、知的障害のない少年なら、あまつさえ美少年や美少女なら誰かに声をかけられておいしいごはんとあったかい部屋にいれてもらえたのかもしれない。守られるべき人間に手を差し伸べる人間がいることも当たり前じゃないのに、それさえ打ち砕く世界なんだよ。この物語はこれで終わりだけど、ルディとポールは世界を憎まずに生きていけるのかな。愛を否定され、存在を否定され、大切な人を奪われた世界で。