深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

暇と退屈の倫理学/國分功一郎~生きることはバラで飾られねばならないが飾るためにはコツがいる~

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《内容》

暇とは何か。人間はいつから退屈しているのだろうか。
答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう。
2011年朝日出版社刊『暇と退屈の倫理学』、2015年太田出版刊『暇と退屈の倫理学 増補新版』と現代の消費社会において、気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加え、待望の文庫化。

 

昨年、入院することがあってそのときに「入院生活になんてぴったりな本なんだ!!」と思って購入した。入院なんて暇と退屈と痛みしかない。その考えは当たっていたけど、この本のおかげで退屈だけは取り除けた。

 

退屈のない人間などいない

 暇と退屈とはあなたにとってどんな状況の時ですか?と聞かれたら何と答えますか?私だったら、仕事や法事の集まりで何もやることがない状況=暇、映画や集団の集まりで周りが楽しんでいても自分はつまらない=退屈、と表現する。

 

 ちなみに入院は検査や手術は自分も参加するがやることがない(寝ているだけ)なので暇だし、看護師や医師が忙しさであっても生き生きと病棟を駆け回っているのに自分はその輪に入れない(共有できない)ので退屈である。だが、退屈は自分で何とかできる。本を読んだりブログ書いたり自分なりの楽しみ方をあれば退屈とは無縁になることができるのだ。

 

 さて、本書は細分化して丁寧に暇と退屈について語っている。私たちが感じる"退屈"の正体は何なのか、と。退屈を第三形式にまで細分化し説明しているが詳細はこの記事では省く。

 

 ここに一つ「推し」という存在について考えてみたい。推し、燃ゆ」という作品が芥川賞を取ったように、今や「推し」という言葉を知らない人はいないと言っても過言ではないだろうし、ほとんどの人が何かしらのオタク、OOオタであることが普通の世界のような気がする。

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

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 人はなぜ誰かを推すのか。それは退屈から逃げるためである。

 人はなぜ仕事にやりがいを求めたり、自ら社畜になったりするのか。それは退屈から逃げるためである。

 

 本書の序章で、スロヴェニアの哲学者アレンカ・ジュパンチッチの言葉を紹介した。彼女はこう言っていた。大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを、私たちはおそろしいと思うと同時にうらやましくも思っている、と。

 なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか?いまや私たちはこの問いに明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。

 

 彼らをおそろしいと同時にうらやましくも思えるとき、人はこの声に耐えきれなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行すること、すなわち奴隷になることを夢見ているのだ。

 

 退屈に耐えられない私たちは今やスマホの奴隷である。自分たちの睡眠を削ってでも友情関係や恋愛関係にヒビが入ってもスクロールする手を止められない。スマホが普及したのは当たり前である。誰もが求めていたものであり、スマホは多くの人を耐えられない退屈という苦痛から救ったのだから。

 

 だが、退屈は人によって形を変える。よって、退屈を定義する事象はない。例え田舎町の1時間に1本しかない電車を待つ時だって、人によっては山の稜線を楽しんだり野草を一つ一つ丁寧に観察することもある。それが退屈を回避できる唯一の方法であり、退屈と戦うために習得すべきことなのだ。

 

 要するに、あの場でハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。そしてなぜ楽しめなかったのかと言えば、答えは簡単であって、大変残念なことに、ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである。

 

 元来、人類は退屈を回避するために「気晴らし」という楽しみを創造する知恵を持っていた。だが、それならなぜ私たちは永遠にスマホを手放さないのだろう。なぜ無限にネットサーフィンしてしまうのだろう。もしかしてスマホもネットも我々を退屈から救ってくれたわけではないのだろうか?

 

ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。

 

 この消費社会のために私たちはスマホを手にしても永遠に満足しない。我々がすべきことは贅沢であり浪費であると本書は言う。

 

 そう、バラなんて枯れてしまう一過性のモノである。それにお金を払うのは贅沢であり浪費である。だが、浪費は贅沢だからこそ上限がある。おいしい食べ物もハイブランドの洋服も胃とクローゼットとお金という限度がある。

 

 対して消費はモノではない。観念や意味である。私たちがスマホで見つける形のない情報は記号である。他人の価値観、承認欲求、誰かの日常、それはモノではないから私たちは浪費することができなくて、永遠に続く消費社会の歯車となっているのだ。

 

 ならばこう言えよう。贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり、人間であることを楽しむことである、と。

 

 人は常に退屈と共存する。そして今は消費社会の中で贅沢の価値は大きく削がれている。だが、消費だろうが浪費だろうが楽しく生きればそれでいいのだ。哲学は答えを決めつけるものではなくて、人生という山を登っている最中にある案内板みたいなものだと私は思う。

 

 もしあなたが退屈を感じ、何か案内が欲しいと感じるならこの本はとても丁寧にあなたと一緒に退屈について考えてくれる。だが、もし必要でないのなら読む必要はない。哲学書とは困ったときの心の薬みたいなものだから。